【なぜ穏やかになったのか】

〔現況の説明〕

現在,九州各地でお話会を続けているのですが,その中で気づいたことがあります。
それは,《なぜ自分が変わったのかをきちんと説明していないこと》です。どうして私は穏やかな性格になってきたのか,以前の私を知る人にとっては理解不能でしょう。

以前に下書きの段階で投稿を取りやめた文章を見つけました。これは丁度良い説明になるかもしれないと感じたので,ご紹介させていただきます。

ベッドから立ち上がり,いよいよ本格的なリハビリへ
ようやく始まるリハビリテーション

二足歩行者の絶妙なバランス

矛盾する状況

私を覆うたくさんの症状たち。まあ各々それぞれに私を苦しめるポイントが違い,時には矛盾する状況にも襲われる。

例えば,体力を維持するためにする食事。

食べなければ体力が減退し立つこともままならなくなるので,必ず食べねばならない。しかし食事が終わると,次には消化が待っているわけで,これに体力の殆どを費やしてしまう。

上の例の場合には,《体力をつけるために食事は摂らねばならないが,摂ると体力を奪われる》という矛盾を有しているというわけだ。

また二律背反のような事態も起こっている。

最近の症状で厄介に感じているのは〈起立性低血圧〉なのだが,これを軽減させるためには充分な水分補給が必要だ。しかし水分補給をこまめに行うと,今度は下痢が始まってしまう。これもまた私を覆う症状の一つ〈排泄の不制御〉なのだ。

上に掲げた2つの例はいずれも,《中庸のたいせつさ》を伝えている。何にせよ,やり過ぎ,偏り過ぎは良くないということだ。

ちょっと信じられないほどの低血圧
こんなに血圧が低いと,起き上がることもできません

典型例としての二足歩行

少し考えを広げてみると,私が苦労しているものとして,歩行もある。これはそもそも地上に生きる生物として困難な歩行方法を採用しているホモ・サピエンスという種自体の問題でもあるのだが。

二足歩行もまた,安定して前進するという目的と,それを達成するためには常にバランスを崩しながら歩を進めるという行動との矛盾を抱えている。ここでもまた,中庸が重要になってくる。

私は元来,極端な人間だった。幸せな時には徹底的に喜ぶ反面,怒る時には周囲の空気が止まったと感じるほど激しく怒り,まわりの人を緊張させてきた。

しかし病は私から,激しい感情の動きを取り去った。行動がゆっくりになると,思考もそれに伴うのだろうか。私は随分と穏やかな人間になりつつある。

中庸の意味を

病と症状は,私を中庸な存在に導いている。きっとそれには意味・理由があるはずだ…そう思えてならない。

これからも私は,絶妙なバランスの上に成り立っている二足歩行のように,生活していくのだろう。

足踏み訓練を始めました
2016年10月21日,全身からチューブが外れたので,足踏み練習が容易にできるようになりました。急激に体重が減ったため,身体の厚みが減っています。

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